先日もご紹介した『自分が「たまらないほど好き」になる本』の中から、気になる点をもう1つ。
ジョージ・ウェインバーグ著、加藤諦三訳
「怒りを抑えない」ということについて、綴りたいと思う。
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強い感情、特に怒りを抑えない
気になったのは、この記述↓
あなたは友だちがくるというので、何時間も買いものをしたり夕食の仕度をしたりしたのに、友だちが最後の最後になってキャンセルをしてきたとします。不愉快だと彼女にいってやりましょう。「あら、いいのよ」なんていわないことです。よくなかったではありませんか。
ひどい扱いを受けてあきらめていると、そのひどい扱いが、抑うつ状態の時には特に、自分に相応だと思えてきます。そしていつしか始終そんな目にあうようになってくるような気がしてしまいます。
同様に他人の強い感情も、抑えつけてはいけません。他人を、あなた同様、おだやかで、抑うつされた状態にしようとしてはいけません。
そのかわりに、あなたは強く感じること、自分の感情のおもむくままに行動することを学ぶ必要があるのです。
特に、
「ひどい扱いを受けてあきらめていると、そのひどい扱いが、抑うつ状態の時には特に、自分に相応だと思えてきます。」
という部分。
つまり、ひどい扱いを受けても怒らないであきらめていると、自分がそういった扱いを受けるような人間なのだという気持ちになってくる、自己評価を下げてしまうことつながるということ。
一旦、放ってしまった言葉は取り返しがつかない
さすがに上記のような例だったら頭にくると思うけれど、というか、こんな相手はもはや友だちとはいえないと思うけれど、
私は怒りを爆発させるということをしないほうだ。
少なくとも、怒りの対象である相手に、怒りをぶつけるということはほとんどしない。いや、全然しないというほうが正しい。
それは、感情的になって、ヒステリックな言葉を放つことをしたくないから。
一旦、放ってしまった言葉は取り返しがつかない。
人を傷つける言葉は凶器だ。
取り返しがつかない凶器になって、相手の心に作用する。
それに、物事というのは巡り巡って自分に戻ってくるものだ。感情的になって誰かをヒステリックに罵倒したら、いつかその言葉は誰かを通して自分に戻ってくる。
相手を傷つける言葉は、自分を傷つける言葉として跳ね返ってくる。
言葉の力は大きい。そして言葉は生き物だ。誰かの心の中で、ずっと息づき続けることもある。
良い言葉だったら、一生を支えるような言葉になることもある。反対に一生癒えない傷になってしまうこともある。
だからなるべく良い言葉をかけるようにしたいと心がけている。それでも失敗をすることがある。
そう考えると、言葉を扱うのにとても慎重になってしまう。
あきらめたほうがいいと思っていた
以前、同僚に、
「”仕方ない”なんて言ってちゃだめだよ」
と言われた。
「仕方ないんじゃなくて、納得いかないことがあったら話し合いをするべきだよ。説明してもらうべきだよ。それでも結局うまくいかなくたって、なにも話さないよりは気持ちの整理がつくでしょ。今のままじゃ、ずっとモヤモヤを引きずることになるよ」
確かにそれはそうだと思った。だけど、
「でもね、話し合う能力がない人、説明能力がない人にそれを求めても無理なんだよ」
って返した。
話し合おう、理解し合おうという気持ちがある人となら、例え意見が食い違ったって、建設的な話ができる。
でもそうではない相手に自分の気持ちをぶつけてみたって、むなしいだけ。必死に伝えようと話した言葉は曲解され、さらにひどい展開になるかもしれない。
さらに傷ついてしまうことになるかもしれない。
それなら「仕方ない」とあきらめてしまったほうがマシ。
周りに「仕方ないこと」がたくさん積もっている
しかし、そうやっているうちに、私の周りには「仕方ないこと」がたくさん積もってきた気がしている。
そしてたまに、
「私のこの“仕方ない”という感情を誰が処理してくれるのだろう」
と爆発しそうになる。
誰も受け止めても、処理してくれもしない。自分で受け止め、背負い、あきらめるだけ。
ひどい仕打ちをされても怒らないでいると、「自分がひどい仕打ちを受けるような人間である」と思うようになってしまうということはあるかもしれない、と気づいた。
こんな自分だから、こんなひどい仕打ちをされるのだ、というふうに。
だから失礼なことをされたら、「あなたのその仕打ちは失礼だ」と言うべきなのだ。失礼なことをされて頭に来たら「あなたのそのひどい仕打ちに私は頭にきている」と伝えるべきなのだ。
失礼なことをされても笑って受け流し、怒りを抑えていると、うつ状態になってしまうことにもつながるのだという。
だから抑うつ状態のときは特に「怒りの感情は抑えるな」ということなのだ。
怒りを爆発させる必要はないけど、怒りを抑える必要はない
最初、これを読んだときには、
「でもイチイチ怒っていたらキリがないし、怒るのも疲れるし、怒りの本質を理解してくれる人なら、そもそも失礼なことなんてしないし」
と思った。
だけど、考えているうちに、失礼なことをされても怒らずに抑えていると、自分が失礼なことをされるような人間なのだと自分の価値を下げてしまうことになるというのは、とても理解できると思えるようになった。
確かに私は、「こんなことをされたのには、自分に原因があったのかも」「自分が悪いからこんな目に遭うのかも」と考えてしまうところがある。
もちろん、反省も大切だ。相手を責めるだけではなく、自分に非があったのではないかと見つめなおす視点も失ってはいけない。
しかし明らかに「失礼でしょ」「おかしいでしょ」ということに対して、“仕方ない”で片付けてもいいものなのか。
――違うのではないかと思えてきた。
そう、違う。失礼なことをされたら、少なくとも、へらへらしている必要はない。
いきなり感情的になるのは良くないかもしれないけれど、不愉快さを態度や表情に出すくらいのことはしても良い。というか、するべきだ。
現代はストレス社会。
ストレスを抱え、それを人にぶつけようとする人は、ぶつける相手を探している。
へらへらしているような人間は、そういったストレス解消のターゲットになってしまうこともある。
この人なら怒らないから。この人なら自分が悪かったのかもと勝手に思ってくれて、責めてこないから。
そんなストレス解消のターゲットに自らなる必要はない。
とはいえ、怒るよりも、本当は笑って過ごしたい。
だから失礼なことをされたらへらへらせず、「私は怒っていますよ」オーラを放ち、それでも失礼なことを重ねてくるようなら忠告し、なるべく関わらないようにし、それを考えないようにする。
「許す」ことができるのも、人間の素晴らしいところ。
そして自分が楽しいと思える人間関係や場に身を置き、なるべく笑って過ごそう。不愉快なものが寄ってこないくらい、精いっぱい輝いてやる。
そう、同じ時間を過ごすなら楽しまなくちゃ!
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