宮沢賢治といえば、知らない人はいないくらい有名な作家ですよね。
「雨ニモマケズ」は、超有名ですし、
童話の「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」など、多くの人が「知ってる!」と声を上げる作品ではないでしょうか。
しかし宮沢賢治が生前に出したのは、自費出版をした2冊だけ、その2冊も評価を得ることができませんでした。
「雨ニモマケズ」は、本にもなっていない、手帳の中に書かれていた言葉だといいます。
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宮沢賢治の生い立ち
宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、岩手県の花巻に生まれました。
貧しい農家が多い花巻地方でしたが、宮沢賢治の家は質屋と古着商を営むお金持ちで、農民たちが生活に苦しみ、高価なものをわずかなお金で質入れするものを、高く売るという商売をしていました。
宮沢賢治はこの家の跡取りでしたが、心が優しく、体が弱い少年でした。
頭は良く、花城尋常小学校6年間の成績はトップか2番。
当時の義務教育は小学校までで、ほとんどの子供は小学校を卒業すると働いていましたが、宮沢賢治は県立盛岡中学校に進学します。(当時の中学校は5年制)
自然を愛し、自然と対話ができる詩人的な面と、科学的に分析できることができる能力を持っていました。
いかりや不満をよろこびにかえる、それは賢治がしぜんに身につけたすがすがしい生きかたでした。
仏教の教えに感銘を受ける
中学校を卒業しても家業を継ぐ決意ができず、自分はどのように生きていったらいいのか悩み続けます。
ある日、島地大等・編「漢和対照妙法連華経」の中に書かれていることを読み、目の前が明るくなります。宮沢賢治は自分の生き方を見つけました。
人はみんなしあわせをもとめて生きています。では、ほんとうのしあわせをえるにはどうすればいいのでしょうか。人のくるしみやよろこびを自分のものにできる人になることです。自分をすてて人のためにつくすなら、生きがいをもつことができます。人も動物も植物も、いのちあるものは、すべてなかまだからこそ、どんなもののいのちもたいせつにしなくてはいけません。
商売には向かないようだと思った父親が、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に進学することを許可します。
宮沢賢治は勉強に打ち込み、無心になりたくなると寺に行き座禅を組み、週末には岩手山にのぼって自然を満喫しました。
また仲間と一緒に「アザリア」という雑誌を出して、短歌やエッセーを掲載していました。
童話を書くようになる
盛岡高等農林学校を卒業しても、家業を継ぐ気にはなれず、宮沢賢治はますます仏教にはまっていきます。
1918年の7月に、子供向けの雑誌「赤い鳥」が発行されました。
日本の新しい童話の基礎を作ったといわれる雑誌で、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、有島武郎などが、童話を書いて掲載していました。
宮沢賢治も短歌や詩だけではなく、童話を書くようになります。
体が弱い妹のトシは、兄の童話のファンでした。
宮沢賢治に群立稗貫農学校(花巻農学校、現在花巻農業高校)の先生になってくれという話がきたときにも、
「先生になれば、生徒たちにも兄さんの童話を読んであげることができるわ」
というトシの一言で、先生になることを決意します。
先生になる
宮沢賢治は先生になりましたが、授業の仕方は変わっていて、教科書は机の上に置いたまま、話をするというものでした。
「セロ弾きのゴーシュ」という童話を書いたことでもわかるように、音楽好きでもあったので作曲をし、生徒たちと歌い、河原に行き、化石の話をし、自然の話から星や宇宙の話になりました。
「宮沢先生の話は素晴らしい」
先生は、宮沢賢治にピッタリの仕事でした。
妹の死、そして「春と修羅」「注文の多い料理店」の自費出版
良き理解者であり、最愛の妹であったトシが病の末に亡くなりました。
宮沢賢治は悲しみから立ち直りながら先生を続け、詩や童話を書き続けました。
トシがなくなってから1年半後の1924年(大正13年)4月、詩集「春と修羅」を自費出版します。
辻潤(つじ じゅん)という1人の評論家だけが読売新聞に取り上げて、素晴らしい詩集だとほめてくれましたが、すぐに忘れ去られました。
12月には童話「注文の多い料理店」(全部で9編を含む)を自費出版しましたが、今度は誰一人、ほめてくれる人はいませんでした。
本屋に並べてもらっても、売れなかったといいます。
宮沢賢治が生前に出したのは、この2冊の自費出版の本だけです。
先生を辞めて農業を始める
本を出しても売れないのは、農民の気持ちがわかっていないからではないか――
自分の教え子たちが学校を卒業して、貧しい農村を豊かにできる人間になることを目指しているはずが、教え子たちは卒業すると泥まみれになってもたいしたお金にならない家業を継がず、勤め人になってしまいます。
自分も同じだ、泥まみれになって働くべきだ、よし、農民になろう。
宮沢賢治は4年ほど続けた先生を辞めて、農民になりました。
農業を続けながら、無料の農学校を部屋で開き、
「農学校で3年かかって学ぶことを3時間で教える」
といって農業に必要な知識を教えました。
レコードのコンサートを開き、芸術の話をし、
「働くだけの農業ではなく、生きがいを持てるように」
と考えていました。
宗教家や芸術家は、正しいもの、美しいものをひとりじめして、かっこよくお説教したり、書いたりして、本や作品を売るだけである。わたしたちはそれを買う力もなく、また、そんなものをひつようとしない。わたしたちはあたらしく正しい道を行って、わたしたちの理想とするものをつくらなくてはいけない。
花巻に「イーハトーヴ」という農民の理想社会を作ろうとしたのです。しかし農民たちにとって、その理想は高すぎて、実現するのは無理でした。
イーハトーブとは宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉である。 ※Wikipediaから引用 |
宮沢賢治が開いていた勉強会「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」は、人が集まらなくなり、2年ほどでつぶれてしまいます。
病気になり実家で過ごす
その後も農民にアドバイスをしてまわることをしましたが、1928年(昭和3年)には体調を崩し、実家に戻ることになります。
「もう少し生きていたい」
その気持ちが通じたのか、体調は快方に向かい、1931年(昭和6年)には東北砕石工場の技師となり、働き始めます。
ところが熱中しすぎる性格ゆえか、無理をしてしまい、再び体調を崩してしまいます。
「生きものを命を奪うくらいなら、自分が死んだほうがマシ」
と考え、家族が体のためだからと進めても、決して肉や魚を食べようとはしませんでした。
楽しみは病床で童話や詩を書くこと。
「雨ニモマケズ」は、枕元にあった手帳の中に残されていたもので、死後に発見されたといいます。
詩であったのか、日記であったのかも、定かではないと。
宮沢賢治は、1933年(昭和8年)9月21日午後1時30分、37歳の生涯をとじました。
発信することの大切さ
今では名前を知らない人はいないほどの宮沢賢治の作品。
発表した当時は、自費出版であったこと、そして評価されなかったことを、最近知りました。
たぶん、宮沢賢治が描く世界は、当時は新しすぎたのではないかとも思われます。
多くの人たちが楽しみ、勇気をもらえる作品が伝えられているのは、たとえ売れなくても宮沢賢治が作品を作り続けたこと、作品を見た遺された人たちが、本人の死後、作品を発表してくれたからです。
宮沢賢治の生前に作品が受け入れられ、その様子を本人が体験できたらよかったのに、とは思います。
しかし同時に、たとえ受け入れられなくても、伝えたいことを発信することの大切さを教えられた気がします。
雨ニモマケズ 全文(ひらがな訳)
雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかやそしょうがあれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい
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