「今の時代だから必要なことで、私にもできることが何かあるはずだ」
と考えていた私に、ある知り合いが、
「今は高齢者社会だから、お年寄りに訴えるような何かをすればいいんじゃない?」
とアドバイスしてくれた。

”お年寄りが喜ぶような何かかあ……”
と思いながらも、あまりピンとこなかった。

”お年寄りは、ただ何かを与えられることしかできない存在なのだろうか。
お年寄りの方から何かを発信することだってできるのではないか”
という疑問が浮かんだからだ。



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お年寄りだからこそ、持っているもの

若者になくてお年寄りが持っているものはなにか。

それは「経験」だ。

戦後の焼け野原だった日本をここまでの大国にしてきた、
「安全で、平和で、自由な日本」
を夢見て、ここまで頑張って頑張って頑張りぬいてきてきた、
その経験、その心意気、そのジャパニーズ・スピリッツこそ伝えていくべきことなのではないか。

現代人には欠けている何かを、
現代人が心から欲している何かを、
そこから大いに学べるのではないか。

それを伝えていくことは、むしろお年寄りの役目なのではないか。

そうだ! お年寄りの話を聞いて、それを伝えていこう!

似たような体験談はたくさん発表されているかもしれないけれど、
いくつあったっていいじゃないか!

原爆の被爆者のお話を伺いたいと思う

そう思いついた私は、まず最初に「被爆者」の話を伺えたら、と思った。

唯一の被爆国である日本、これを伝える記述はいくつあったって無駄ではない。

「私の義母が被爆者なので、頼めばいくらでも話してくれると思いますよ」
と言って下さった広島出身の知り合いの方がいた。

”お話を伺ったところで、どこで発表すればいいのか”
などと考えていたら、東北の大震災が起こり、一旦この話は中断になった。

原爆とは違う形での被爆が問題となる日々になってしまった。

でも私の頭の中にはずっと1945年の原爆のことがあった。その被爆者のお話を伺いに行くということが。

広島と長崎で「二重被爆」をした方がいたことを知る

1945年、広島と長崎で「二重被爆」した山口彊さんのことを知ったのは、
イギリスの放送で、広島と長崎と二度被爆した山口さんのことを
「世界一運が悪い男」
として笑いの種にした、という件だったと思う。

その後、謝罪があったそうですが、この報道で「二重被爆」という言葉を知った。

そして山口さんの著書「ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆」(朝日文庫)を読んだ。

「ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆」

山口彊さんは1916年、長崎に生まれた。
裕福な家庭に生まれたものの、家業は倒産。
旧制中学卒業後、長崎三菱造船株式会社に入社。
1945年8月6日、出張先の広島で被爆、8月9日、帰郷した長崎で被爆。
終戦後、長崎に駐留していたアメリカ海兵隊に通訳として従事する。
その後、中学の英語教師となり、そして三菱造船に復職。
2006年、90歳で出演したドキュメンタリー映画「二重被爆」がニューヨークの国連本部で上映され、現地でスピーチを行った。
2010年1月4日逝去。

原爆が落ちた瞬間のことを、山口さんは、
太陽が地上に落ちた。
と表現している。

文字を目で追うだけで、その時の様子が想像されて涙が出てきた。

でもきっと、私の想像力では及ばないような現実がそこにはあったには違いない。

著書からの※引用※

 人と人との付き合いは、勝つか負けるか、支配するか従うかで括られてしまうような貧しいものではないはずだ。

(中略)

国と国との付き合い、外交もそうだ。相手から奪うか、抑えつけるという付き合い方が正しく、愛国的だなどと誰が決めたのだろうか。話せばわかることは多いはずだ。

私にとって問題は、「どう生きていけばいいのだろう?」ではなかった。必要なのは、「ただ生きるしかない」という覚悟しかなかった。

人から言われて、私の心臓は動くのではない。私はただ生きている。生きている限り、迷っても道は見つかるだろう。迷っても結局のところ何かを選ぶしかない。自分で努めないことには解決しない。そうであれば迷いに飲まれ、不安に覆い尽くされることはない。

(中略)

迷いは常に自分の内にある。だから、ファイティング・スピリッツが大事なのだ。

ファイティング、戦うとは、人を殺めることや人に勝つことを指すのではない。困難なことがあってもなお自らを奮い立たせて生きる。「生きる」ことそのものが戦いなのだ。

生きることは戦い、きっと現代でも

「生きる」ことは戦いだ、と山口さんは書いている。

今の日本の日常には、武器を持っての戦いはないだろう。

でも私には「戦いはある」ように思える。

現代人は武器こそ持っていないけれど日々戦っている。

他者と戦っている人もいるかもしれない、でも私は自分の中に戦いはあるように思える。戦いを生み出すのは自分の心なのだと。

何かに負けたくない、優位に立ちたい、しあわせになりたい、あがめられたい、恥をかきたくない、カッコよく生きたい、
そんな自分の中の欲が戦いを生むのではないだろうか。

自分自身の前に高いハードルを置き、それを越えられないともうダメだと思ってしまう。

高すぎるハードルを置く必要はないのに。

それで越えられなくて転んだとしても、恥だと思うことはないのに。立ち上がって、また歩き出せばいいだけのことなのに。

しかし欲を持つことが人間らしさなのだとも思う。その人間らしさが戦いを生みだしてしまう。皮肉なものですが。

「私の命をバトンタッチしたい」

ドキュメンタリー映画はDVDになっています。

生前の山口さんの映像を、メッセージをご覧ください。

私たちは山口さんの魂のメッセージを受け止めなければならないと思います。

 

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