公開されたばかりの「私は貝になりたい」を観た。(監督:福澤克雄、脚本:橋本忍、音楽:久石譲、キャスト:中居正広、仲間由紀恵、他)
今回の、やはりシリアスな作品「私は貝になりたい」を観て、また何人かの方の映画レヴューを読んで思うのは、
「中居くん、損してるなー」
ってこと。
がんばるのは当たり前だと思われるかもしれませんが、今回も上にあげた作品でも、中居くんが全力投球しているのは、ものすごく伝わってくる。
なのに、原作や前作が素晴らしいために、また中居くん自身のバラエティでのイメージが強すぎるために、中居くんとしてはいい演技をしているのに、それが割り引かれてしまっているような気がする。
例えば、SMAPつよぽんが出てくる場面では、二人ともいい演技をしているのにも関わらず、スマスマでのコントのように見えてしまったり。
観ている間は、ところどころで涙しながらも、上記したようなことが頭をよぎり混乱していましたが、観終わってからあらためて思い返してみると、この映画、素晴らしい。
希望ある場所から突き落とされ、失意と怒りの中で、再び見えてきた希望の光、そこからまた一気に突き落とされる絶望。
ラストの方で豊松(中居くん)が見せる狂気の様は、すさまじい。
**以下は、簡単なストーリーです。**
清水豊松(中居くん)は土佐(高知)で、女房の房江(仲間由紀恵)と息子の健一と共に貧しいながらもあたたかく、理髪店を営みながら暮らしていた。
召集令状が届き、豊松は戦場へ向かい、そこで過酷な日々を送る。
終戦となり、家族のもとに無事帰ってきた豊松は、平和な生活が戻ってきたと思っていたが、ある日突然、戦犯として逮捕されてしまう。
豊松のような立場の兵士には上官の命令は絶対であり、逆らうことなど許されなかったのだと、裁判で無実を訴えるものの、理解されることはなく、豊松には最も重い判決が下される。
房江は夫の嘆願書のため、必死で署名を集める。
豊松も希望を捨てず、再び家族と一緒に暮らせる日々がくることを夢みていたが……
はっきり言って、観終わった後、いい気持ちになんて少しもなれません。
それでも、私はこの映画を観てよかったと思いました。
今いる日常は、過去の上に成り立っているものなのに、その過去を知らずにいるのは、恥ずかしいことだと思ったから。
パンフレットの中で、田中宏巳さん(元防衛大学校教授)が、次のように書いています。
※引用※
東京裁判(A級)の起訴28人に対してBC級5644人、死刑判決では7人に対し934人にのぼるが、日本ではA級ばかりに関心が集まり、BC級は看過されてきたきらいがある。A級裁判がショー的雰囲気の中で、昭和とともに日本が歩んだ歴史そのものが裁かれたために日本人の注視を集めたが、それこそが連合軍側の狙いであった。この間に、大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行われていたのである。
田中さんは、こう締めくくります。
しかし講和条約発効まで、極貧にあえぐ遺族に国は遺族年金も支払わず、一般日本人も犯罪者扱いして、遺族を苦しめた。
この点については、われわれ日本人も深く反省しなければならない。
前作も観ていなかった私は、今回初めてこの作品の内容を知ったのですが、このタイミングで、この作品がリメイクされ、中居くん主演という話題性を持って公開されたのは、効果的なことなのではないかと思いました。
重たい内容だけど、中居くん主演というだけで、軽い気持ちで観にいけそうですものね。
で、観終わった後、ずしーんときて、心に強い印象を刻み付ける……。
脚本の橋本忍さんの言葉が印象的。
※引用※
「(以前「私は貝になりたい」がヒットしたのは)結局、人間の原罪そのものに突き当たっているからヒットしたのだろう、という結論が出てきたんです。つまり、人間は集団でしか生きられない。だから序列や縄張りが出来上がる。人間はその枠……個人と家族、個人と職場、個人と社会、個人と国との枠……のなかでしか生きられないが、そのしがらみに抵触し、ぶつかることがいかに多いことか、いっそ貝にでもなってしまいたい……。こうした”貝志向”の人が予想外に多かったのではなかろうか。しかし、そうした”貝志向”の人は今のほうがもっともっと増えている」
ううううーん、確かに。
「私は貝になりたい」というタイトルに惹かれなかったといえば、嘘になるような気がする。
いえ、実際に貝になりたいと思ったことはないけれど、無意識に「私は貝になりたい」ってどういうことなんだろう、どういう心理なんだろう、と惹かれたというのはあるように思う。
例えば、人間関係に疲れたときに、
「もう山ごもりでもしたいよー」
なんて思うことがありません?
実際に山ごもりするところまでいかなくても、そういう気持ちになってしまうということ。
”山ごもり”は、人間のままで出来ることだけど、”貝になりたい”ってどういうのだろうって。
普通の心理だったら、「生まれ変わったら何になりたい?」と聞かれれば、今よりももっと恵まれた人生を望むでしょう?
でも豊松は――
もしも生まれ変われるのだとしても、もう人間なんて厭だ、と言います。
こんなひどい目に遭わされる人間なんて絶対厭だ、と。
そして、
どうしても生まれ変わらなければならないのなら、
(誰も知らない、深い、深い、海の底の)貝になりたい……
と遺すのです。
ここまで追い詰められる人間の心理を、感じ取れる映画だと思います。
豊松の帰りを信じて待っている家族が、あまりにも切ない。
希望の欠片も感じられない映画だと思われるかもしれませんが、ここに希望を見出すとしたら……、
現代に生きる人間がこういう過去があったと知ることが、無念のまま逝かれた方たちを悼むことにつながるのかもしれないということ、
また、このような狂気を呼び起こしてしまう、過ちを二度と繰り返さないと誓うこと、
でしょうか。
過ちを犯してしまうことの意味は、そのことを二度と繰り返さないようにすることにあるのですから。
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