「イントゥ・ザ・ワイルド」(監督・脚本:ショーン・ペン、キャスト:エミール・ハーシュ、ハル・ホルブルック、他)を観た。

以下、映画チラシより。

1990年夏。ジョージア州アトランタのエモリー大学を優秀な成績で卒業したクリス・マッカンドレスは、ハーバードのロースクールへの進学も決まり、将来を有望視された22歳の若者だった。ところがある日、周囲の期待をよそに、クリスは惜しげもなく車を捨て、貯金のすべてを慈善団体に寄付し、クレジット・カードとキャッシュを燃やして、あてのない旅に出る。最終目的地は、アラスカ。

この映画を観た方々、それぞれの立場や考え方でいろいろな感想があるようですが、私は私なりに感じたことを書いてみます。

まず、家庭の問題を含めた自分をとりまく重苦しい現実、そして容易に想像できてしまう夢も希望もない重苦しい将来からクリスが逃げ出したくなったのは、理解できます。

一度、そういうしがらみ全てから解放されたい、たった一人の自分になって、自分を見つめなおしてみたい、そして自分自身を見つけたい――

自分を取り巻く環境に疑問を持って、そこから逃げ出したりするのは、10代のうちにやることかな、とも思いましたが(まあ、これは人それぞれとも言えますが)、クリスはきちんと大学を卒業するというところまでは義務を果たしたわけです。

今まで自分を守ってくれていた、でも反面窮屈でもあった周囲のものを全て取り払った時、そこに見えてくるものはなんだろう……、クリスももしかしたら、そんな気持ちで旅立ったのかもしれません。

自分の周りのものを否定しているわけではない、いえ、反対に否定したくないという本音が隠されていたからこそ、その意味を知るための旅に出たのだと。

旅先で何が起こるのか、何がしたいのか、何が出来るのかはわからない。

全てをゼロにした時、自分は何を考え、何をするのだろうか。

もしかしたら、自分に対する実験的な気持ちもあったのかもしれません。

旅の途中でたくさんの人々に出会い、教えられ、アラスカにたどり着き大いなる、そして過酷な自然と向かい合い……、

元々頭がいいクリスですから、きっと学ぶことも多かったでしょう、

そして最終的には、自分なりの結論(人との関わり方や、幸せについて)にも達していたように思えました。

二度と戻らないつもりではなかったというのは、帽子の目印を立てておいたことでもわかります。

私は、こんな結果にならずに、もしも帰ることが出来たら、その後の人生はたとえしがらみだらけの社会の中で暮らすことになろうとも、心は自由のまま暮らせたのではないかと思います。

そうできる術を、クリスは旅を通して、身体中で学んだはずだから。

自分の場所は与えられた場所だけではない。

自分の居場所がない、居心地が悪いと思うのなら、自分で自分の居場所を作り出していけばいい。

でもそれは他人がいる場所を否定することではなくて、それも認めること。(但し、自分が壊れそうになるほど我慢して認める必要はない)

他人を認めることは(許せることは)、自分を認める(許せる)ことにもなる。

そして自分が未熟であるのと同じように、周りの人々も未熟な人間であるのだと気付くこと。

だから、過ちも犯してしまう、分かり合おうとしても分かり合えない場合もある。

それでも許せることは許して、適度な距離感を持ちながら、自分を見失わず、歩んでいく方向を誤らないこと。

帰ってきて欲しかった、と思った。
帰ってこれてこそ、その経験が活かせたのに、と。

自然を甘く見ている、無防備すぎる等、クリスの行動を批判する声もあるようです。

私はクリスの行動を批判も肯定もしたくありません。

ただ、全てを捨てて旅に出た、クリスの心理は、理解できるように思います。

それが間違いだったのか正しかったのかなんてわからないけれど、この時のクリスはそうせずにはいられなかった、それを我慢してあのまま暮らしていたとしても、たぶん壊れていたのではないかと。

彼にとっては、必要な一時的な逃避だったのだと思います。

逃げが必要な時もある、でも逃げたことの責任は後でやっぱり自分が負わなくてはならないんですよね。

その後にやってきた責任が、クリスの場合には、あまりにも重い責任だったということでしょうか。




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