「ファクトリー・ガール」を観た。(監督:ジョージ・ヒッケンルーパー、キャスト:シエナ・ミラー、ガイ・ピアース、他)

これは60年代にアンディ・ウォーホルがニューヨークに”ファクトリー”と呼ばれるスタジオを構えた、そのウォーホルのミューズであったイーディ・セジウィックという女性の物語。

アンディ・ウォーホル、ミック・ジャガー、ボブ・ディラン、Nico……、最近ブライアン・ジョーンズのブログを書くようになって、そこに名前が出てくるアーティストたちが絡んでいる映画だと知って、「これは観るしかない!」と思った。

(役者さんが演じているミックやNicoは少しだけ出てきます。ミックは後姿だけの登場です。しかし、以前”ブライアンがボブ・ディランにNicoを紹介し、ディランがNicoをウォーホルに紹介してNicoはウォーホルの映画に出演した”と、確かNicoのサイトに書いてあったことを参考にして書きましたが、この映画を観る限りではボブ・ディランとウォーホルがそういう関係であったようには思えません)

以下、映画のあらすじ↓

イーディス・ミンターン・セジウィック(イーディ・セジウィック)は1943年4月20日、カリフォルニア、サンタバーバラの名門の旧家セジウィック家の8人のうちの7人目の子供として誕生。
裕福な特権階級だったが、父親は子供たちに対して異常なほど厳格だった。(しかしイーディは父親から性的虐待を受けていたらしい)
イーディは拒食症のため、寄宿学校を1年で中退、父親はそれを知ると、彼女を精神病院に入院させた。
同性愛者だった兄ミンティは、父親からのプレッシャーに耐えられず自殺、長男のボビーも精神病院に入院していたが、父親との確執がとけないままバイク事故で死亡。
彫刻の勉強をしていたイーディは1964年にニューヨークに移り、翌年アンディ・ウォーホルに出会う。パーティー会場でイーディを見たウォーホルは、一瞬にして彼女の美貌の虜になる。
イーディはウォーホルのスタジオ”ファクトリー”の欠かせない存在となり、ウォーホルが次々と作り出した映画の主演をつとめる。
”アンディ・ウォーホルのミューズ”ともてはやされたイーディは、ファッション雑誌に追い掛け回され、ヴォーグ誌は彼女と契約を結び、印象的なアイメイク、大きなイヤリング、黒いタイツなど、彼女のファッションスタイル全てが流行となった。
互いに心を通わせていたイーディとウォーホルだったが、イーディがボブ・ディラン(映画の中ではビリー)に出会うと、ウォーホルはその仲に嫉妬し、イーディに冷たい態度をとるようになる。
ディランに忠告されたにも関わらず、イーディはウォーホルを信じていたが、ウォーホルはイーディを無視した。仕事も失い、収入もなくなったイーディは、ドラッグで心神喪失状態となる。
その後、入退院を繰り返し、1971年マイケル・ポストと結婚するが、薬物の過剰摂取で死亡。28歳だった。

この映画を本物のボブ・ディランはあまり快く思っていないという記事をどこかで読みましたが、彼はそんなに悪く描かれてはいないです。クレームがあって、手直しされたおかげなのかもしれませんが。

ウォーホルの作品に皮肉を言い、「君は彼の小道具に過ぎない。使い捨てさ」と、イーディに助言をするディランは、むしろ真実を見抜いている冷静で魅力的なアーティストとして描かれています。

ボブ・ディランの1966年のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」におさめられている『女の如く』はイーディに触発されて作った曲だそうで、そもそもアルバム名自体(ブロンドを超えるブロンド)がイーディへのオマージュなのだそうです。

イーディの存在は、この映画を観るまで全く知りませんでしたが、途中から切なくなってしまいました。

だって彼女は、人間的にとっても純粋なのです。卑しいところとか、意地悪なところなんて、まるでなくて。

ボブ・ディランに「君は使い捨てにされるよ」と助言された時だって、「友達なのに(アンディ・ウォーホルを)裏切れない」と、言い返します。

イーディが”友達”だとかばったウォーホルは、彼女がお金に困っている時だって映画のギャラさえ支払ってくれず、冷たく突き放すような人だったというのに。(少なくとも、この映画の中では)

簡単に手に入り、まわりの誰もが平気でやっていたドラッグ……、イーディはドラッグに溺れていきますが、この時代を生きた他のアーティストたちが語るように、イーディもドラッグに対して罪悪感はなかったのではないでしょうか。

うつ状態にならないためにドラッグに頼っていたという意識でやっていただけで。

しかし、最初は軽い気持ちでやっていたドラッグに、次第に自分が支配されることになってしまった……

イーディが亡くなった後、インタビューを受けたウォーホルは、
「(イーディを知っていたのは)だいぶ昔の話だし、それほど親しくもなかったし」
と、まるで他人事。

でも、彼は元々そういう人で、客観的に考えれば、そんなウォーホルを信じて関わっていたイーディが愚かだったととらえることもできます。

またはいくら一時期親しかった同士だったからと、相手に過剰な友情を求めても、自分のペースを崩してまで友情のために尽くす人は、それほど多くないということなのではないでしょうか。

寂しいことだけれど、みんなぞれぞれ自分のことで精一杯な場合が多いし、それが現実。

だけど、たぶんイーディにとってはそういう単純なことではなかったのかもしれません。

イーディにとってウォーホルは、自分を認めてくれなかった父親のようでもあり、また同じように同性愛者で自殺してしまった兄のようでもあった。

つまり、ウォーホルに関わっていることは、自分の心の傷を慰めることにもなった。ウォーホルがクセがある人だとわかっていても、関わらずにはいられなかったということでしょう。

自分が負ってしまった心の傷を癒すために、無意識に選択してしまう苦しい状況。

結局はそれが自分を追い詰めてしまうことになるのに。

心に傷を負った人が、知らずに陥ってしまう状況なのかもしれません。

だから、
”その選択は負った心の傷のためのものであり、本当に望んでいるものではない”
と、気づくことが大切なのだと思います。気づいたからって、すぐに軌道修正はできなくても、気づかないでいるよりはずっといい気がします。間違いだとわかれば、正しい方向に行くようにと考えていけるのですから。

映画の中のイーディは「ディランを選ばなかったのは過ちだった」と語っていますが、実際のイーディはどうだったのでしょうか?

まあ、実際にはウォーホルを選んでディランを選ばなかったということでもないような感じだし、イーディだってウォーホルといることで有名になり、いい想いもしたわけで、ウォーホルが一方的に彼女を利用して見捨てたというのではないような気もしますが。

ウォーホルから離れた時こそ、イーディは強く自制心を持ち、自分の生き延びていく道を探すべきだった。

しかし元々精神的に不安定なものを持っているイーディは、生き抜いていくのにはあまりにも弱く、純粋すぎたのでしょう。

でも、彼女は確かに存在していて、彼女の存在に影響を受けた人々がいたのも確かなこと。

短い人生だったけれど、彼女は必死に生きていたのだろう。

せめて、この映画で初めて知った彼女の苦しみや、永遠にのこされていくであろう美しさを心の中にとどめておきたいと思った。

(追記:その後、イーディのことをもっと知りたくて、イーディの本を読み、この映画を観た時とは、イーディへの印象が変わりました。あらためて、そのことも書いてみたいと思っています)
→「イーディとウォーホルと、いきなりブライアン」更新。




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